あなたを見ているときだけ世界は完璧だ

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自由の残滓

昼間だとそんな感じにならないのに、深夜にクルマの運転席に座ると、急に世界の解像度が上がるような感覚があります。観念でしか見ていなかったものが、急に実像として眼に映ってきて、雨の音や風の音、タイヤが拾う路面の凹凸などがとても生々しい現実として感じられます。
そうやって現実が鮮明に感じられるようになると、不思議なことに、それに隣接するありえた過去やあり得る未来といった、非現実もその現実感が増すように思えます。がらんとした、空っぽの世界の広がりを感じるような気がします。どこまでだって行けてしまいそうな、何にでもなれるような気がするのは、10代の時とおなじです。

でもまあ、結婚して子供もできて、ある程度の年数働いてくれば、それなりに自分の身の回りが埋まってきていてます。いろいろ痛い目にも合うので、自分の可能性を盲信することもできません。そこは、10代のころとは違うのです。僕だっていろいろとしんどい思いをして、それなりに賢くなっているのです。

そう思っていながら、深夜の走行中に感じるこの感じは、単に10代の頃の記憶の残滓なんですかね。やっぱりちっとも賢くなってないんじゃないか、中学生くらいからなーんにも進歩してないんじゃないかと、そういう気も少なからずするのです。
体はあっちが痛くなったり、こっちがダメになったりするけど、精神的な年齢って、要するにそういう役割を演じたくなるから、演じるほうが楽だからそういう年齢になるというだけのことなんじゃないかという気がします。

単に僕に学習能力がないだけなのかもしれませんけど。