あなたを見ているときだけ世界は完璧だ

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The 文系

故あって荷物を整理しなくてはいけなくて、部屋を片付けているのですが遅々として進まず、毎度毎度心が折れてしまいます。ゴミが多いとか汚れてるとかいろいろ問題はあるのですが、何といっても問題なのはものが多すぎるということなんです。特に本。これが大問題です。どれもこれも資料と呼べるようなものではなく、単に好きで好きで仕方がないだけの生活にはまったく役立たない本なのですが、だからこそ捨てられない。

大体において、本を読むのは純粋に楽しいことなのだから、そこに邪念が入るのはよくないと思うんですよ。勉強したいとか、何かの役に立てたいとか、ヨコシマな気持ちで読むと、本来の楽しみを減じる気がします。うまいものを貪り食うがごとく、ステキな異性に熱をあげるがごとく、ただただ夢中になることこそが、最大限そのヨロコビを享受する手段なんじゃないかなーと思うわけです。で、僕は今日も、さまざまな荒唐無稽な作りごとを大喜びで読み続けるわけです。

なんで40近くなってもこんなにも「お話」に耽溺するのをやめられないのだろうか、と思っていたのですが、その理由には若干思い当たる節があります。そしてそれは、僕が算数が嫌いになった理由と関係があるような気がするのです。

引き算の筆算を教わっていたときに、繰り下がり、というのがありますよね。あれが、僕は致命的にできなかったのです。筆算にしなければ、別に普通に計算できるんですけど、縦に並べて計算しようとするともういけない。
たとえば47-9という問題がでるじゃないですか。
先生がいうわけですよ。「7から9は引けないから、一個上の桁から10借りてきましょう」すると、当時小学生の僕は、「なるほど、7の隣にいる4という奴は、頼めば貸してくれるのか。結構いいやつなんだな」などと思うわけですよ。それで、17から9を引いて8と書いた後、10の桁をどうしようと思うわけですが、そこに3と書けばいいものを、そうしようとすると、僕の頭の中には「なんだよ、困ってるから貸してやったのに、何の挨拶もないのかよ。世の中そんなもんだよな。人情紙風船だよな」という思いを押し殺して何気ない風を装っている現在3、本来は4だった数字のいじらしい表情(あんのか?)が思い浮かんでどうしようもないわけですよ。「そうだよな、借りたもんは返さないとな。なんだったらちょっと多めに返してやってもよさそうなもんだ」とか思うわけです。
その結果、47-9の答えが58とかになって、先生にバツをもらうわけですよ。で、いろいろ説明してもらうわけですが、「それはわかった。でもそういうのはよくないと思う」とか思ってるんですよね。

これは先生が「借りてくる」という表現をしないほうがよかったとか、そういう問題ではなくて、算数をお話として理解しようとする僕の傾向が生んだ問題だと思います。遅かれ早かれ、論理の申し子たる算数とはうまくやっていけなくなる瞬間が来たのだと思います。論理が理解できないわけじゃないんだけど、どうも興味が持てない。ナチュラルボーン文系とはこういうことでしょう。

つまり、いいとしになっても物語に淫するのをやめられないのは、それこそが僕自身だからなんだと思うんです。仕事柄、ちゃんとしたロジックを組み立てることを要求される場面もあるので、それっぽく見えるような書き方やしゃべり方をする場面も多くありますが、それは理屈っぽく見えるだけで、本当は物語的なよくわからんウェットな感傷をデコレーションしてるだけなんじゃねえの?と、ほかならぬ自分自身がサイギの目を向けているのです。

とまあ、こんなわけのわからんテキストを延々と書き綴っているひまがあったら、少しでも本の整理をした方がいいのは分かっているのです。でもね、処分しようとして手に取ると、本が言ってる気がするわけですよ。「なあ、おまえ、覚えてるか?俺たちがあったのは梅田の書店だったよな。お前はその日のミーティングがいやでいやで、何か現実逃避する手段を探してたんだっけな…。どうだった、俺は役に立たなかったか?あの時はさ…」
あーもう処分できねー!!
処分しますよ、しますけどね…(以下繰り返し)