あなたを見ているときだけ世界は完璧だ

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うまくやりたい症候群

誰でもそうなんでしょうけど、僕だって誰かと話すとき、どうせなら、内容のあることをできるだけ短い言葉で、でもちゃんと伝わるように話したいと思います。で、タイミングや、状況や、表現を可能な限り考え抜いた揚句、一定のクオリティに達していないと判断してまるごと捨てることがあります。「ことがある」というのはかなり控えめな表現で、痛い目にあったり、身の程を知るようになればなるほど、言いかけたことを飲み込む機会が増えていきます。最近は、若いころに比べるとずいぶんとしゃべらなくなったと思います。

割とクローズドなmixi日記や、あまり長い文章はかけないtwitterですら、書くには書いてポストしない内容というのが、公開している文章の5倍ぐらいあります。(驚くべきことにね。あの無内容にも関わらず。)嫁に贈ろうとしてやめたプレゼントや、友達あてに書いて投函しなかった手紙もたくさんあります。編集者としての僕は、作者・企画者としての僕にはかなり厳しいのです。厳しいだけで、判断の正確さが伴わないところがより痛いのですが…。

あきらかに言うべきことを言わなかったり、会うべき人に会わなかったり、するべきことをしなかったりの繰り返しでもうじき不惑を迎えるわけですが、なんでそうなってしまうかというと、自分がアクションすることによってどういうメリットを受けることができるか、ということを中心に判断しているからだと思います。
もっと大事なこともあるだろうに情けない話です。結局のところ、僕は他人に考えていることを伝えることよりも、それによって他人にどう思われるかを気にして生きてるわけですから。

仕事で書く文章やドキュメントは、締め切りがあるから嫌でもどこかでまとまりをつけて、発表することができます。でも、こういうことには目に見える締め切りはありません。でも、目に見えなくても締め切りはある。その人と関係が切れてしまうかもしれないし、僕が死ぬかもしれないし、相手がいなくなってしまうかもしれない。

人生の折り返し点を過ぎて、死ぬ準備を始めるにあたって、改められるところは少しづつ改めておきたいと思うのです。
それには結局試行を重ねる必要があって、結局そこで失敗を繰り返して、さらに症状がひどくなるだけの話になるような気もしますが…。