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コドモが殺される事件ばかりでつらい

個々の事件の細かい背景はよくわからないけど、なんというか、自分と似た年代の、同じく親という立場の人々のことを考えると、こういうニュースを聞かされるのは、肉体的な痛みに似たものを感じます。それは被害者の心情を思うに余りある、ということでもあるんだけど、特に福岡の事件については、断片的に漏れ聞く限りでは(真相がどうなのかは知りませんけれども)、自分にも加害者になる要素がなくはない、という点においても、辛いものを感じるのです。

親のことを保護者などといいますが、こと心情的な部分については親のほうも子供に保護されてる部分が相当あると思うのです。子供の喜ぶ顔や、平和な寝顔、精一杯の親への思いやりに、我々はどれほど支えられていることでしょう。私のごときダメ人間は、子供がいなかったらもっともっと自堕落に生きているに違いありません。かわいがっているといえば聞こえはいいですが、子供に依存してどうにか生きているといっても過言ではないと思います(自分の場合ですよ)。
そういう状態の人間にとって危険なのは、子供に対して勝手に思い入れてるところです。これが裏切られた、と思った瞬間に魔が差すのではないかという気がするのです。私も主夫を志したこともあったのですが(単に失業していたともいう)、一番自分に不安を抱いたのはこの点でした。「仕事をしなくなったら、どこまでも子供にもたれかかっていくダメ親になるんじゃないか」ということです。

別に仕事しなくてもいいと思うんですけど、やっぱり、子供の親であるということ以外にもアイデンティテイがないと、親という役割の麻薬性に対抗しにくいんじゃないかな、と思います。そうであって初めて、余裕をもって自分と子供の関係を俯瞰できる気がします。
自分にとっては、結局は職業を持ってそっちもがんばるということしか適切と思える方法を見つけられなかったのですが、ただこれも、そっちに傾倒しすぎる傾向があって、それもいいことではないと思うんです。つくづく、現代において親をやるということは、細い細い一本橋の上を危ういバランスをとりながら進んでいく、ということに似た行為なんだな、と思います。

そんなわけで、一連の報道を見ていると、とてもとても他人事とは思えず、なんというか、ひどく憂鬱な気持ちになるのです。